アダルトチルドレンとは

完璧主義者

こんにちは、多次元心理セラピストの金澤です。
いつも「アダルトチルドレン癒しのワーク専門家」に訪問いただきありがとうございます。

今日のテーマは「完璧主義者」です。


もし完璧に行動していれば、誰からも批判されないし、
だとしたらこれ以上傷つく理由もなくなるはず
という信念によってあおられた考え方です。

けれども、子ども時代に
「どんなにがんばっても、まだ十分ではない」ことを
学んでいる場合、

完全主義は自己否定感を土台にしています。

その結果、
自分は、これでよいと感じられるようにして
痛みの原因を減らそうとする戦いは
限度がなくなり、いつも人より優れているよう、
常に一番になるよう邁進し続けることになる。

完全主義に凝り固まった人というのはたいてい、
厳格で硬直的な家庭環境に育っています。

親に認められるため、
あるいは拒絶される不安を減らすために、
物事を「正しく」やらなければならなかったのです。

そして「正しい」とはつまり、
間違いはひとつも許されないという
意味だったのです。

完璧主義者のほとんどは、
心の中に限度というものの感覚がありません。

自己否定感や怖れが
四六時中背中を追い立てているので、
常に時分がどこまでやれたかを
外側の基準で計っています。

子ども時代、
彼らは努力して前に進めと教えられました。

一休みする時間も場所もなかったし、
喜びや満足を味わう暇もなかった。

完璧に基準をおくということは、
あなたは決してそこに達しないということです。

子ども時代に、おとなからされてきたことを、
心の中で自分にやり続けているのです。

いくらあなたが努力しようと充分でなく、
よくできたと感じる体験をしていないのならば、
あなたは「どれくらいならよいのか」という
感覚を身につけていないはずです。

大人になった私たちは、
自分がかつてどんなことで認めてもらおうとし、
感心を向けてもらおうとし、
ほめてもらおうと必死になってきたか、
気づく必要があります。

私たちは全力を尽くしてきたし、
自分は本当にこれでいいのだと
理解することが必要なのです。

受け入れてもらえないと感じ続けてきたのは、
私たちに価値がないからではありません。

外側から評価を下し、
拒絶するぞと脅かすことで
力を手に入れようとしていた人たちが、
こころにおいていった残骸なのです。

子どもの時にはわからなかったけれど、
今はそのことを認めることができるはずです。

孤 独

こんにちは、多次元心理セラピストのの金澤です。
いつも、「アダルトチルドレン癒やしのワーク専門家」にご訪問いただきありがとうございます。

本日のテーマは「孤独」です。

私たちが情緒的な孤独の中で、
生きることを身につけてしまったのは、

本当のことを話せなかったためです。

家庭内での、情緒的孤立は、
家の外でも、孤立をもたらすことが多いものです。

私たちは、自分の痛みや家族の痛みを
他人に知られましとします。

もし、他人が知ったら
どんな反応をするかが不安です。

そして、大人になっても
ぽつんと一人でいたり、
あるいは本当の感情や考えを隠したまま
熱心に、人付き合いをしたりします。

「話すな
」「感じるな」
「信頼するな」

のル ールが私たちを孤立させるため、

一見社交的にふるまっていたとしても、

それは表面的なものに過ぎません。

 

トラウマ

こんにちは、多次元心理セラピストのの金澤です。
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今日のテーマは、「トラウマ」です。

自分の近くで、知っている大人の言い合う声がしている。

よ~く聞いていると なんだかかみ合っていない

よくある内容の話しである・・・

今、行おうと思って検討していたあたり、
前のわかりきった内容の事を指摘されたというもの

小さい頃、よくあったシチュエーション 
親に指摘されて、
「今、やろうと思っていたところなのに そんなに怒って言わなくても」・・
といった感じ

当事者ではないけれど、
隣りで聞いている者も、何かイヤ~な感じを味わってしまう。

起こっていることを客観的に
ありのまま捉えれば、
お互いにちゃんと「聴く」ことをすれば
事は簡単にすむことなのに

なぜ、言われたほうも、言ったほうも、
横で聞いていたほうも不快な感じを
味わうはめになってしまうのだろうか。

なにか、小さい頃に親との関わりの中で
身につけたパターンを
大人になってもまだなお繰り返しているようである。

そのパターンが、自分にとって本当に
役にたつやり方なのでしょうか。

日常生活においても、
何か不快な感じをもった瞬間があったならば

過去のシチュエーションを
イメージしてみるのもいいかもしれません。

おわり

他人の愛を受け取りましょう。

こんにちは多次元心理セラピストの金澤です。
いつも、「アダルトチルドレン癒やしのワーク専門家」日本ご訪問いただき、ありがとうございます。
今日のテーマは、他人からの愛を受け取りましょうです。
他人からの愛を
受け入れる機会が
なかったらどうして
自分が本当に他人を
愛せるでしょうか。
愛されるチャンスが
少なかったら、
愛のメッセージが
わからないのは当然です。
愛と共依存を
混同しているかもしれません。
愛は、おだやかで
心をなごませます。
自分と相手が
成長していくのが
わかります。
共依存は、
胸がドキドキして
落ち着きません。
しがみついて
相手から離れられなくて、
いつも相手が気になります。
他人から愛を
もらう練習をしましょう。
相手が共依存でない
愛をくれるとき、
心を開きましょう。
自分を防衛して
与えられる愛を
さえぎってしまわないよう、
少しずつ自分の中に
受け入れてみましょう。
受け入れたとき、
どんな感じがしますか。
あなたなしでは、
生きられない」と
言われて有頂天になったら
それは、共依存の愛です。
近づけば近づくほど
尊敬心が増し、
自分の弱みを出しても
安全が感じられ、
自分を失うことがない
感じがするのが
健全な愛です。

「犠牲者のパターン」痛みに対する感情の反応

こんにちは
アダルトチルドレン癒しのワーク専門家
多次元心理セラピストの金澤です。

アダルトチルドレンのパターンで、
見捨てられ感を味わった子どもは、
「自分はもともと何かいけないんだ」という
恥に満ちた自己否定のメッセージを心に刻みます。

「なされるがまま」の犠牲者的パターンは、
自分の感覚を信じない態度を身につけ、
他人の感覚の方が間違いないと思っています。

この人たちは、
疑うという道具を放棄してしまい、
他の人が「物事はこうなっているんだ」と言うと、
いともやすやすと同意してしまう。

犠牲者は質問をすることをしません。

自分の価値を信じていないため、
自分を守ったり、
健康を維持したり
安心できる状態で過ごす
といったニーズが
自分にあることさえわからないことが多く、

結果、自分の面倒を見ることができません。

怖れによって動かされていて、
傷ついても失望しても、
虐待されてもなお、
怒りや憤りといった感情を
認知することができない。

何が必要か、
何が欲しいのかと
聞かれても、
まったく分からないことが多い。

状況に降参し自立を放棄してしまえば、
さほどひどい痛みを感じなくてもすむだろうと
思いこんでいる。

犠牲者は、
痛みにひたすら耐え、
他人の理不尽な行動に耐えることに
慣れてしまっています。

あなたはそうではありませんか?

日々の出来事や感情に対して、
無理な理屈で自分を納得させたり、
大したことではないと切り捨てたり、
あるいは、たんに事実を認めなかったりする
訓練を重ねることで、
自分自身から感情を切り離している。

こうした人は、
他人とつきあおうとしない場合もある。

一方、犠牲者であることを
周囲にアピールする場合もある。

「私がどんなにひどい目にあってきたと思う?、
私にこんなことするなんて、
本当にひどい人たちよね!、
私はじっと耐えるしかなかったのよ」と
犠牲者でいることが、
生き方そのものとなっている。

安全や安心を得られるような行動を
とることができず、
さらに見捨てられたり
虐待される結果を招いてしまう。

特徴的なのは、
その人の、自己否定感が強ければ強いほど、
さらに自己否定感をもたらすような
相手を人生に招き入れやすい
ということが言える。

その相手は、
一見、能力があって行動的で、
一緒にいれば弱い自分を守ってくれそうな
感じの人なのです。

けれど、こうした二人の行き着く先といえば、
魅力的だった相手が
支配者となって、
犠牲者を情緒的にも身体的にも
打ちのめす結果になることが多い。

自己否定感の強い日とは、
繰り返し犠牲者となるキケンが大きい。