親と似てきている自分がいたんです。

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今回は、アダルトチルドレンの症状で苦しんでいる
当事者の方のスピーチをご紹介します。

同じ悩みで苦しんでいる方の
なにかしらの参考になれば幸いです。

以下書き下ろし ↓

親を反面教師としてずっと生きてきたはずなのに
親と似てきている自分がいたんです。

 

自分が怖くなってしまった。

 

もし自分が親になった時、
子どもを苦しめる親になってしまうのではないか。

 

そう思ったらからです。

 

そんな悶々とした思いを抱えながら
二十歳になりました。

 

晴れて大人の仲間入りをしました。
子どものころ辛い経験をした分
「人にやさしくなれるよ」
「だから頑張ってね」

と言われてきました。

 

でも、私はやあしい大人には
なれませんでした。

 

このとき、こう思いました。
もしかしたら

 

大人も痛みを抱えているんじゃないか。
悲しみを抱えているんじゃないか
と思ったんです。

 

ある時、アダルトチルドレンという
概念に出会いました。

 

ACは子供のころの家庭での経験や
親子関係が大人になってからも
精神面や生き方にあまり
良くない影響を及ぼしていることを指します。

 

私はその概念を知った時
ホッとしました。

 

ずっと自分を責めてきたけれど
大人だって完璧じゃないんだ
ということを知ることができたからです。

 

そしてこうも思いました。

 

もしかしたら私の親だって
完ぺきではなかったのかもしれない

 

ハッとしました。

 

私は、自分の親に理想の親を押し付けて
親を親としてっ見ることができていなかった。

 

とそう思いました。

 

もしかしたら親だって
痛みを抱えているのかもしれない

 

親だって悲しみを抱えていたのかもしれない
そう思うことができました。

 

でもやはり私自身親になった時
子どもを傷つけてしまうのではないか、
という不安がありました。

 

子どもの頃はたくさん同情されたり
優しくされたりして生きてきました。

 

でももしも私が、子どもを傷つける
親になってしまっていたら、
その瞬間に立場は逆転してしまうんだろう

 

そう思いました。

 

たとえ子供に愛情を注ぎたいと思っていたとしても
親と違う子育てを選択したいと思っていたとしても

 

そんなことはお構いなしに批判をされてしまうんだろう
そう思っていました。

 

アダルトチルドレンという概念を調べていくうちに

 

自分自身の痛みを緩和することができること
親と違う子育てお選択できるということを知りました。

 

そして私はアダルトチルドレンの
克服方法を探し続けました。

 

カウンセリングやワークショップを
沢山見つけました。

 

でもどれも高額で私の手には届きませんでした。

 

自助グループというものも見つけました。
同じ痛みを抱えていた者同士が集まって
自分自身の経験をシェアすることによって
心の傷を癒していく集団です。

 

でも私が見つけたものは
神様や自分の力に頼るものが大きくて
難しくてなかなか足を運ぶことができませんでした。

 

そして途方に暮れてしまったんです。

 

どうして、家族というこんな身近な問題なのに
身近な場所で問題を解決できないんだろう

 

疑問に思いました。

 

もっと身近に問題を解決する場所があってほしい。

 

そう願って、私はもっと気軽に自分自身の経験を
シェアできる場所を作ろうと思い
「はじめの一歩」という場所を作りました。

 

それが一年前の今日です。

 

一年間活動を続けてきて
気づいたことがあります。

 

実は、この場所に足を運ぶこと自体が
ハードルになってしまっているということです。

 

私の作った場所に
足を運べるという人は

 

どこにでも行ける人だ
と思ってんです。

 

ワークショップやカウンセリングの様な
専門的なものは社会には必要です。

 

しかし、それが専門的であるがゆえに
ハードルが上がってしまっているという
現実があると思います。

 

専門性は時に、
「人とは違う」抵抗をうんでしまうんです。

 

だからこそ、どれだけ人に寄り添って
すばらしい制度を作っても
そこから取りこぼされてしまう人が
必ず出てきてしまうんではないか。

 

私はそう思いました。

 

途方に暮れている人や、
痛みを抱えている人が求めているものは

 

専門的な治療法でしょうか
自分を救ってくれる制度でしょうか

 

もちろんそれらは社会に必要です。

でも私はこう思うんです。

 

本当に苦しんでいる当事者が
求めているのは

ただ受け止めてもらえること
だた理解してもらえること
それだけではないか

そう思っています。

 

身近なところに
そういうものがないからこそ

 

専門的なところに頼るしかない
現実があるのでないかと思います。

 

そして、専門的なものにハードルを感じた瞬間
途方に暮れてしまうのは
「身近な人に理解してくれる人なんかいない」
こんな前提があるからだともうんです。

 

だからこそ私は今
この場を通じて
痛みを抱える大人がいるということを
知ってほしいんです。

 

そして、子どもを傷つける親を見た時に
少しだけ創造力を働かせてほしんです。

 

もしかしたらこの大人も痛みを
抱えているんじゃないか
悲しみを抱えているんじゃないか

 

そう思って批判することを
躊躇してほしんです。

 

ただ知ること、躊躇すること
それだけでは何も変えることはできない

 

そう思うかもしれません。

 

でも私はそうじゃないと思います。

 

知ること
創造力をもって相手と向き合うこと

 

ただそれだけで

 

苦しんでいる当事者は

 

あなたに理解してもらえていると
感じることができます

 

それだけで救われる人がいます。

 

ここにいる人も
誰かの居場所になれるかもしれないんです。

 

知ろうとすること

創造力を持つこと

 

それが当たり前になれば

 

どんな社会になるでしょう。

 

きっと今よりも
カウンセリングに行きやすくなるし

 

身近な人に相談しやすく
なるんじゃないかと思います。

 

そして自分の思うような
居場所を選択することが
できるんじゃないかと思います。

 

居場所の多い社会の実現が
結果として、めぐりめぐって
悲しい思いをする子供や
痛みを抱えている大人を減らすことに
つながるがるのではないでしょうか。

 

私は自分を受入れてくれる人たちに出会い
少しだけ居場所ができました。

 

私には実家はないけれど
立ち寄ることができる場所ができました。

 

変える場所は作れること
頼れる人は自分で選ぶことが
できることを知りました。

 

そのことが今の私を
活かしてくれました。

 

ここにいる方も
私を活かしてくれた人の一人です。

 

今まで私を活かしてくれた皆さん
ありがとうございました。

 

これからも誰かの居場所になってください。

 

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